日本三大和牛の名称の由来
日本三大和牛
  和牛の牛肉の日本三大和牛とは神戸牛、松阪牛、近江牛である。江戸幕府が崩壊し、横浜に外国人が到来してから、牛肉の消費は高まった。同時に、横浜の外人住居地の近くに屠場が設立され、牛肉の流通が始まった。わが国では当時、牛は三重、兵庫、岡山、京都、福井、滋賀で農地を耕作する役牛として多く飼育されていた。関西圏でも勾配がきつい棚田や森林の伐採の運搬にも使用する場合にあっては、馬や雄牛を役に使用していた。岐阜、愛知以北は主に馬が用いられていたことから、当時、牛の供給は関西・中国方面で入手せざるを得なかった。
 
 明治2年に滋賀県の家畜商が横浜に運んだのが始まりとされ、明治4,5年頃には東海道五十三次を約17日ほどかけて一人が10頭の牛を繋いで横浜に向かった。それらの牛は「江州牛」とよばれていた。牛のブランドの始まりは、滋賀県から発信されたものである。東海道五十三次には運搬に携わった者が宿泊した牛宿の痕跡が今も残っている。当時、牛宿では牛の草鞋が多く捨てられることもあって、これらは堆肥としてリサイクルされていたとあることからも、結構な量が運ばれていたことが想像できる。東海道五十三次を運搬することは必ずしも安全なことではなかったようで、搬送中にはさまざまな事故や追いはぎに会うなどことがあり、次郎長親分に助けられたことなどが記載された記録がある。危険を冒してさらに牛に負担をかけて搬送することが、容易なことではなく、効率的でないのは誰にでも理解できる。

神戸牛  そこで考えついた方法は船便である。明治15年に神戸から船のデッキに積まれ、横浜に荷揚げされ、牛はすぐに屠場に運ばれと殺された。このような手段が取れるに及んで、東海道五十三次を牛に歩かせ運ぶものは少なくなった。このことから、これらの牛が船積みされるところが神戸港からと言うことで「神戸牛」の名称が出来上がることになった。生産地で名称をつけて送り届けたものではなく、消費地の流通に携わる者が呼んでいた名称が固定化していったものである。

松阪牛  さて、神戸港から出荷する牛は、兵庫産だけではなく、三重産、京都産、滋賀産、岡山産なども船積みされた。当然のことながら、横浜に運ぶのにわざわざ神戸港まで運んで船便に乗せ、紀伊半島を大きく回って行くのには、効率が悪すぎると考えるのは当然のことである。明治17年から、四日市港から船積みが始まった。これが「松阪牛」と呼ばれるようになった。「神戸牛」「松阪牛」は船積みから、名称が生まれたことになる。この船積方式は長く続いた。これらの牛の集荷には、継続して近江の家畜商が大きく係わった。

近江牛

 次に、大きな事件が起き、船便は途絶えることになる。その事件とは、明治26年にわが国で牛疫が発生する。牛疫は牛の恐ろしい伝染病で感染すると致死率は100%で、法定伝染病に指定されていた。その当時、中国大陸を中心に発生していた。そこで法律により、生きた牛の移動は牛疫を伝播させることから、牛の移動が禁止された。このことは、流通に甚大な影響を及ぼした。今まで運んでいた船便は禁止され、横浜で盛んにと殺されていた牛は全く運ばれてくることがなくなり、東京や横浜にあったと場は経営難となり、破綻していった。
 
 一方、飼育地域で健康な牛をと畜して牛肉を運搬することは可能であったため、産地ではと場が建設され、牛肉として搬送されることになった。明治23年から東海道線が開通したことから、明治25年から牛肉(枝肉)として汽車で運ばれることになった。貨車で最も多くの牛を運搬したところが、八幡駅(現在の近江八幡駅)からであった。地元では八幡牛と呼んでいたが、この牛が運ばれてきたところが近江であったため消費地である東京ではこれらの牛を「近江牛」と呼び、それが現在の名称となった。

 近江は牛を繋いで東海道五十三次を搬送していた時から、関西の牛の多くを取り扱っていた。古来、大きく流通に関係していたため、近江八幡に多くの和牛が集められ、牛肉として関東方面に鉄道で運送することになった。東海道五十三次で牛を繋いで運搬していた時は、横浜の欧米人が食するだけであったが、明治16年頃になると「牛なべ」などが東京で流行の食べ物となり、日本人でも食べるようになった。しかし、当時においても牛肉の消費は東京方面の出荷と京都が消費の中心で、庶民のものではなかった。

 今日では、生産者・生産地域が売りたいために牛の名称(ブランド)をつけ販売合戦を行っているが、これらの日本三大和牛の名称は消費者が商品の区別をするためにつけたもので、歴史のある名称であると言える。


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