牛疫と近江牛
はじめに
 現在、滋賀県で生産された和牛は、「近江牛」と称されている。しかし、明治26年前までは、江州牛と呼ばれていたようである。日本三大和牛である近江牛の名称として呼ばれるようになったきっかけは、牛疫の発生により、生体の移動禁止が流通を大きく変えたことによるものであった。
牛疫とは
 牛疫は家畜伝染病で、口蹄疫、アフリカ豚コレラ等ともに海外悪性伝染病で、偶蹄類の動物の肉等の輸入禁止対象監視伝染病の一つである。原因はパラミクソウイルス科モリビリウイルス属の牛疫ウイルスによるもので、特に、牛に発熱、沈鬱、消化器系の異常、暗褐色の激しい下痢、口腔粘膜の丘疹・水疱などの全身症状を呈し、急死または高致死率の伝染病である。
 ワクチンにより多くの国で撲滅されてきているが、パキスタン、東アフリカ、中近東で一部発生が見られている。わが国では1922年(大正11年)に清浄化が達成されている。
牛疫の発生と運搬手段の変更
 中国や韓国で発生していた牛疫が明治25年、明治26年全国に大流行する。牛疫は重要な家畜伝染病の一つであり、蔓延防止策として家畜の移動の禁止が行われた。ちなみに、明治20年の東京府下の牛と畜数は、約20,000頭であり、江州33%、摂津32%、播州11%、伊勢7%であった。これらの牛の多くは、神戸港、四日市港から生体で出荷されていた。

 牛疫の発生により、牛の移動が禁止され、船積みの運搬はできなくなった。明治23年に東海道本線が開通していたため、牛の生産地でと畜された枝肉が貨車により運ばれることになる。滋賀県では、明治25年から八幡駅(現在の近江八幡駅)から枝肉の貨車による運搬が始まり、牛の食肉産業は地場産業として繁栄した。一方、東京、横浜の屠畜場は経営不振となり、閉鎖に追い込まれていった。

 わが国では、大正11年まで牛疫の発生が認められていることから、この時期までは貨車による枝肉搬送がされていたのであろうと推察できる。しかし、牛疫のワクチンの開発などにより、牛疫の発生がなくなると、この時代には冷蔵搬送ができなかったことから、搬送は貨車による生牛の搬送に代わっていった。八幡駅の周辺では生牛の集荷する場所や飼料店もあった。
 ちなみに、牛疫のワクチンを開発したのは、蠣崎千春である。
近江牛
 明治24年までは、船積み運搬であったため、出荷港が神戸港、四日市港であったことから、神戸牛に含まれ、近江の産地は目立たないものであったが、東海道本線を利用して、近江八幡駅から枝肉の運搬を始めると、その出荷量の多さと品質の良さで一躍有名となり、「近江牛」の名称で区別され、呼ばれるようになった。その当時、滋賀県では八幡駅から出荷する牛肉を「八幡牛」と呼んでいた。
引き継がれる近江牛  
 近江牛の歴史を遡ると、東海道五十三次を牛を引いて運んでいた時代から、卓越した肥育技術の定着があり、近江商人的感覚のある家畜商が近畿一円を走り回り、耕種農家の役牛の更新に寄与していたことなどにより、集荷力と肥育技術が相まって「近江牛」が誕生してきた。

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